ウワバミ |
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☆ ゾウをのんだウワバミ |
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飛行士は六つのとき原始林に住むおそろしいウワバミが、象を丸呑みした、 世にもおそろしい絵を描いて大人に見せました。 すると大人はウワバミの絵のかたちをみて「なんで、帽子がこわいものか」といいました。 そこで帽子の中身を描いてみせたら、びっくりして恐がるどころか、「つまらない絵を描いてないで、もっとためになる本を読んだり、役に立つ勉強をしなさい」と言われました。 それいらい、絵描きになることをあきらめ、役にたつような地理とか文法とかの勉強をし、飛行機の操縦をおぼえて、飛行士になりました。 そして、ブリッジ遊びや、ゴルフ、政治、ネクタイの話をするようにしたら、大人達は「物わかりのよい人間だ」と満足しました。 |
◆「ためになること」とは この飛行士の子供の頃と同じような思い出は誰でもありますよね。 自分ではとっても不思議な世紀の大発見を、大人に話したけれどもわかってくれず、つまらなそうにされたり、しかられたりしたという思い出を。
「遊んでないで、役に立つ勉強をしなさい」 「マンガばかり読んでないで、ためになる本を読みなさい。」 この言葉で、どんなに多くの大学者や大文豪、冒険家がその将来の夢を断念したことでしょうね。 わたしもその大文豪の一人? だったかも。 サン=テグジュペリは無理でも、 三太=愚図屁流?くらいにはなれたかもしれません。 子供のころは、「ためになる」「得をする、得をしない」という意味が解らないんです。 だれにとってどういうことなのか、得をするとはどういうことなのか解らないのです。 小さい頃は人が喜んでいるのを見ると、自分も嬉しくなってしまいます。 それがあたりまえの感じ方なんです。 自分と他人とが対立するというようなとらえ方はありません。 「自分が」という言葉の奥には、他人より自分を優先するという怪しい響きがあります。 これを仏教は「無明」と云っています。 これがあると正しい物事の判断ができなくなります。 自分の欲望に翻弄され、自分を客観視できなくなります。 これは昔の神道も、仏教も、儒教も道教も「小我、あるいは小人」として、肉体=自分という発想を取り去ることが大切である、としてきました。 キリスト教も「幼子でなければ、天国の門には入れない。」といって、大人の「自分によかれ」と言う心はいけないといっています。 子どものころは、自然も、他人も同じ風景の中に住んでいます。 そこは、時間、空間の縛りがありません。 「霞立つ長き春日を子供らと手まりつきつつ今日もくらしつ」(良寛) といった感じです。 そういった遊びの中から、さまざまな学びをするのです。
例えば、誰でも経験があるでしょうが、河原で石を割ったときにみつけた水晶の結晶の美しさにびっくりして、夏休みの一夏中、河原で石を金槌で割ったり、秋の川で手づかみで捕まえた産卵期のオイカワの美しさにみとれたり、遠足で見つけたモウセンゴケの不思議さに、遠足から帰った次の日曜日に一人で山奥へ出かるなど、自然はその美しさと、不思議さの「秘密」を垣間見せ、人の子に感動と情熱を与えるのです。 また、このころの読書の楽しみは格別です。 大人になってからの読書とは違い、何かの役に立つからとかというような、 二次的な有用性・有効性のためではありません。 本の中、それ自体が別世界であり自由の天地であります。 時間、空間の感覚がなくなり、魂がゾクゾクとするような喜びが、 読書自体のなかにあるのです。 それには、せんべいとお茶も必要です。
「宮本武蔵」「新書・太閤記」「三国志」「ドリトル先生航海記」「坊ちゃん」 「我が輩は猫である」…。 おもしろかったなあ〜。 こういった自由な読書の中から、人としての道義心や正義心に目覚め、悪を憎むという心が芽生え、自分という人間がどういった人間であるかを学び始めるのです。 本来、人は、時間、空間の縛りの中には住めません。 自分の本質は時間、空間の縛りがなく、彼我の縛りがなく、思いそのものであり、イデアそのものであり、夢そのものであり、理想そのものであり、真、善、美そのものであるのです。 それにしても可哀相なのは近頃の子どもです。 学校から帰ると塾へ直行。その後はピアノの習い事。 自分の心を遊ばせる時間がありません。 そうした子ども達が、自由な天地での呼吸が出来ず、 友だちを競争相手としてしかとらえられずに 苦しくて自宅に火をつけたり、親を殺したりしてしまうのです。 被害者は子どもなのです。 そういった「損得」の時間、空間の縛りの世界を選んだ大人の世界は、 どうなってきたのでしょう。 功利性、便利さを追求した結果はどうなったのでしょう。 その結果は、核問題、公害、殺人事件等など様々な問題が噴出してしまいました。 殺人事件は、昔は1年間に十数件しかなかったのが、今では毎日です。 まさに、世の中は狂っているとしかおもえません。 「利益第一主義だ。」 「きれいごとをいってはいられない。」と云う大人と、「面倒なことに関わりたくない。」と、それを容認してきた大多数の大人にその責任があるのです。 その結果を、今の我々が甘受せざるを得ないのです。 老子という昔のえらい人がここのところをこういっています。 「為さざるある也、而して後、為すある也。」 これは人間として生きるにはルールがあり、「何々をせよ。」でなく、「何々をするな。」「人に迷惑をかけるな。」が世の中の「最初のルール」であり、その土台に立って自分の理想を追求しなさいと教えています。 まずは「為さざるある」ことを知りて後、「為すあり」を知らなければなりません。この順番を間違えて、なにが「便利か」「儲かるか」を盲目的に優先して追求した結果、このような状況になってしまったのです。 科学自身に罪はありません。 責任は無目的に、あるいは目的を誤ってしまったわれわれ自身にあるのです。
今必要なものは、子供の目を持った本当の大人の問いかけでです。 「どうして空は青いの。」 「どうしてここに坂があるの。」 「自分とは何なの。」 「あなたは誰。」 「どこから私たちは来たの。」 「どこへ私たちは行くの。」 「私たちはどういった存在なの。」 もう一度、われわれ大人一人々がよく目をあけて、ビジネス社会、あるいは科学文明という有用性・有効性のウワバミの中身をよく確認しなければなりません。 外見の言葉、外側だけでものごとを見るのではなく、ものそのもの、ことそのことの意義を理解したうえで、なにを為すべきかを見極めた上で行動しなければなりません。 自分で汚したゴミは、自分でかたづけるのは当たり前ですよね。 ツケは人に回さずに、ケツは自分で拭きましょう。(失礼)(わが家の家訓)
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